TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

村上春樹は焼きそばに例えることができる

僕は村上春樹について書くときに、焼きそば−中華麺と具材をウスターソース(または塩)で炒めた麺料理−こそが、村上春樹作品に対する最適な比喩だと思っている。焼きそばが食べ物であることは、誰もが知っていることだし、もし初めて焼きそばを見る人がいたとしても、それが食べ物であると判断するに足りる十分な形をしている。これは語るには値しないことかも知れない。けれど僕は自分自身にとっての村上春樹を確かめるために、彼の作品と焼きそばとの関係について、語らなければならない。好むと好まざるとに関わらず人生には時折そんな瞬間が訪れる。ただそれが今というだけなのだ。

村上春樹と焼きそばの同一性という共通点

村上春樹と焼きそばの共通点は「同一性」にあると思う。まずはそれぞれの同一性を例示して、「A=CかつB=C、よってB=C、証明終了」という構造で村上春樹を焼きそばにしてみる。論理的にものを書くなんて久しぶりだ。もとい、そんな作業今までにできた試しがない。数学だって中学生の頃からからっきしダメだったから、きっと書き終えた時にはただの破綻した村上春樹賛美になっているだろう。でも書き始めたからには最後まで書ききらねばならない。文章とはそういうものだ。

村上春樹作品の同一性

村上春樹作品を読んでいるといつも「いかにも村上春樹っぽい文章だな」と思う。これには一つの例外もない。感情の起伏も天変地異も穏やかな風景のように淡々と描かれて、出来る限りの感情を排した文章。。声のでかい脳筋は登場せず、ある意味では洗練された、けれど彩りのない灰色の心を持ったキャラクター。他者とのつながり方はセックス。ジャズと断定のない世界と多くの失われた物事。それが村上春樹作品だ。

こんな書き方をしているけれど、僕は村上春樹作品が大好きだ。長編、短編、エッセイはほとんど全部読んだ。おかげで何も考えずに文章を書いていると、いつのまにか文体が村上春樹っぽくなるくらいだ。高校生の受験勉強の逃げ道で村上春樹に出会えたことは、僕の人生において数少ない「良い経験」と言ってもいい。けれど村上春樹は、どの作品も村上春樹的だ。冒頭の村上春樹作品っぽい文章がそれだ。全部大体こんな感じの文章なのだ。

焼きそばの同一性

ソース焼きそば、塩焼きそば、あんかけ焼きそばなどなど、焼きそばにも様々な味や形があり、それらは同一性の反証となり得るかもしれない。しかしそれらは全て焼きそばという単一のフィールドに存在するものであり。結局のところどんな具材であれ、調理方法であれ、焼きそばが焼きそばであることに変わりはない。その違いは村上春樹作品における長編、短編、エッセイ、翻訳のようなもので、形式が変われど本質的にはすべて焼きそばである。焼きそばに対して恨みはないが、どれだけ美味しい焼きそばも、焼きそばという世界から抜け出すことはできない。金魚が陸上で生きてはいけないのと同じように。

村上春樹作品は焼きそばだ

先に述べた村上春樹、焼きそばそれぞれの同一性を共通点として見た時に、「村上春樹は焼きそばだし、焼きそばは村上春樹だ」と言える。より正確に表現するならば、「村上春樹の作品はどれも似たり寄ったりという点で焼きそば的だし、焼きそばはどれも村上春樹作品のように似たり寄ったりだ」だろう。

ただし誤解しないで欲しいのは、村上春樹の作品と焼きそばの間に優劣をつけているわけではないし、それぞれを個別に非難ているわけでもない。村上春樹作品は長編、短編、エッセイに関わらずほぼ全て読んでいるし、お好み焼き屋ではお好み焼きを食べずに焼きそば、あるいはオムソバを食べている。

村上春樹の作品は表現されていることは違えど構成するアイテムが同じで、それが村上春樹的な作風を生み出しており、その同一性は、僕にとって焼きそばを食べた時の感覚と同じなのだ。だからまずは村上春樹読んでみて欲しい。まず一冊目はデビュー作の『風の歌を聴け』を推薦する。二冊目は小説でもエッセイでも、なんでも好きに選んでくれたらいい。2冊目を読み終えた時、あなたはきっとこの言葉の意味を分かってもらえると思う。

村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」はいつも仕事鞄に入れている。薄くて読みやすいけど、胸ポケットに入れても銃弾を止めてくれそうにはない。