
ゲーム「NEEDY GIRL OVERDOSE」のリリースから4年が経ち、本作はついにアニメ化を迎えた。正直なところ「ついに」というより「なぜか」の方が適当かもしれない。何をどうすればアニメ化できるか見当もつかなかったし、いつの間にか超てんちゃんや原作者のにゃるらを取り巻く環境が最低最悪キショキショ地獄になったりして、どちらかといえば不安の方が大きい日々を送りながら、それでも指を折りながら劇場先行版の公開を待っていた。
ただ事前にティザーを見る限り、画面の中にはモンドリアンやモルフォ蝶やヴェイパーウェイブ(MACプラスフローラルの専門店)やナムジュン・パイクが山盛りで、きっとにゃるらの好きなものを詰め込んだアニメなのだろうと言うことは伝わってきた。
封切りは早春の夜雨に濡れながらテアトル梅田で見た。公開初日最終回の人入りは超かぐや姫と比べれば決して多くはなかったが、むしろこれが超満員になるような世の中だったらそもそもニディガ自体生まれることはなかっただろう。
劇場先行版と言えば昨年のジークアクスを見たときの衝撃は腰を抜かし言葉を忘れるほど大きなものだったが、ニディガに関しては展開も着地点も読めない緊張感のある時間であった。ただ基本的には「超てんちゃんがアニメになったよ!かわいいね!」と思いながら見ていた。にゃるらの脚本も気にはなるが、それはそれとして超てんちゃんは超絶最かわな天使であるからそのお姿がスクリーンの中で輝いているのは実に素晴らしい光景であった。
内容としてはOVERTUREの副題の通り、序曲、序章に相応しいものだった。超てんちゃんは何者か、人は超てんちゃんをどう見るか、超てんちゃんとそれを取り巻く人々はどうであるか。それがにゃるらによって甘美に、あるいは露悪的に描かれている。文字にしてみれば実にシンプルな話である。配信者は画面の中でキラキラしているけれど、それ以外のシーンでは、あるいはそれを見ている人は基本的に陰鬱の中にいる。だからこそ配信者をアイドル≒虚像として推し、そして消費している。「お前ら私を推せよな、私はそんなお前らに微笑んでやるからよ。なんてったって私は天使だからな」物語の骨子はこのようなところだ。
作中の演出についてはにゃるらの趣味が大きく現れている。可憐な美少女が世俗の中で輝いている姿もあり、汚れている姿もあり、弱者が擦り切れていく姿もあった。にゃるら自身ネットの中で有名になった人であるし、ところどころでにゃるら自身を投影したようなシーンもあったように思う。耽美で退廃的な背景、音楽と合わせてみてみると特にそう感じられた。
おそらく、このアニメは基本的ににゃるらの摂取してきたサブカルチャーを再構築したものだ。90年代のサヴァイヴ感、ゼロ年代のセカイ系、10年代の孤独と依存、これを一つにまとめ上げたものがアニメとしての「NEEDY GIRL OVERDOSE」である。そして「ふーん、なるほどね、そういう感じなんだ」と後方腕組み彼氏面を全員でするのがOVERTUREであった。
冷笑しているかのような感想だけれど、本放送でこのスタンスとイメージがどう破壊されるか今から楽しみで仕方がない。漏れたちは冷笑しながら世界を消費している場合じゃない、自分の足で歩いて、自分で居場所を掴んで、そして超てんちゃんにペンライトを振るんだ。超てんちゃんはそんな漏れたちを救ってくれる。だって超てんちゃんは天使だからな。信じるものは救われるって、どこかのまとめで読んだことあるぜ。

栓抜きの









































