TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

京都タワーが、京都が、嫌い

自宅の窓からは京都タワーが見える。京都駅に降りるたびに目に入る京都タワーにいつもうんざりしていたが、これが自宅からも見えるのだから堪ったものではない。僕は京都タワーが嫌いだ。

正確には嫌いなものの象徴としての京都タワーが嫌いだ。京都という都市、多すぎる観光客、傲岸不遜な年寄り、乱暴なバス、危険なタクシー、蒸し暑い夏、底冷えの冬、そこに8年も住んでいる自分、京都にまつわるあらゆることを積み上げて京都タワーは立っている。

もし京都タワーがなかったとしても、結局他の何かを代わりに嫌っているだろう。鴨川デルタとか嵐電とか、そのあたりの京都っぽいランドマークを目の敵にすると思う。

しかしその一方で京都は暮らしやすい街だと思っている、生活は徒歩圏内で済むし、通勤は1時間もかからないし、終電なんて考える必要もない。暮らすだけなら良いところだ。

それでも京都が嫌いな理由。それは「息苦しさ」だ。脈々と受け継がれてきたその土地のコミュニティ、そこでの付き合いは重苦しく面倒に感じる。就職で京都に来たから根無し草のような身の上だと思っていたが、上司に請われて地域の祭り(それも祇園祭だ)のボランティアに参加させられたりそのまま所属させられそうになったりして、あわや京都に取り込まれそうになったことがある。誰も悪気はないんだろうけれど、その体験は本当に嫌で仕方なかった。

かつては既存の何かに属することが自然なことだったのだろうけれど「自分の身は自分で守れ、他人なんて放っておけ、まずは自分を大事に生きろ」な個人主義で生きてきた90年代生まれにとって、何らかの既存のコミュニティに肩まで浸かる行為は自分のアイデンティティを他者に委ねるというリスクでしかない。

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既存のコミュニティに所属することのイメージ

もしコミュニティが自身から発生したものだったり、自身の意志で参加するものであったなら、それをリスクとは感じなかったはずだ。なぜなら自分とコミュニティ間のギャップがなく、何も失われないという安心感があってあるからだ。しかし既存の価値観や枠組みに自分から参加してそこに身をおくことは、つまり自分がコミュニティの一部となることであり、自分自身が変化することだ。それを許容できるほどのゆとりを、ゆとり世代は持ち合わせていない。コミュニティやつながりなんてものはSNSですべて足りている。

やたら歴史やら伝統やらを押し出す京都において、とにかくそのようなコミュニティがたくさんある。実家を取り巻くコミュニティなんて町内会くらいしかなかったが、京都においては町内会に加えて学区、寺社、祭り、その他いろいろな団体がある。とにかく誰も彼もがコミュニティでつるんでいる。それが京都で生きるため合理的な方法だとしても、個人主義な自分にとっては息苦しさでしかない。

その不快感が積み上げられて京都タワーは立っているし、夜にはライトアップまでされている。人によってはそれが美しく見えるのだろう。でも僕にとってはとても禍々しく見える。