TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

アンナ・カヴァン『氷』/世界は静かに死にゆく、あるいは既に死んでいる

異常な寒波のなか、私は少女の家へと車を走らせた。地球規模の気候変動により、氷が全世界を覆いつくそうとしていた。やがて姿を消した少女を追って某国に潜入した私は、要塞のような“高い館”で絶対的な力を振るう長官と対峙する。

アンナ・カヴァンの「氷」は、いわゆる終末ものの小説だが、この物語は世界が終わる瞬間ではなく、世界が終わりゆくまでの間が描かれている。

彼らが氷に飲み込まれるシーンはないけれど、結末から数ページ先には彼らの死と世界の終わりがはっきりと読み取れる。

氷という静かな脅威は、今のコロナウイルスによく似ている。武装勢力や爆破テロのような定義された脅威は存在していないのに、彼らは確実に私たちの命を脅かしている。そして終わりゆく世界はガラスが割れるように派手なものではなく、静かに生活を侵食し、少しずつ日常を削り取っていく。

テレビの扇動や、悲喜こもごものSNS、ドラッグストアに並ぶ老人、手書きされた「売り切れ」の文字、確かにこれは日常ではない。人類史において感染症は珍しいものではないが、当事者にとっては人生初の出来事だし、集団は流言飛語に惑わされず理性的に行動するほど賢明ではない。

個人ができる範囲の防疫には努めているが、しかし感染してもその時はもうしょうがないと思っている。諦めというか腹をくくったというか、とにかく愚痴を言ってもしょうがない。ただでさえ自分ひとりで生きるのに必死なのだから、10万円だろうがお肉券だろうが他人の声は正直どうでもいい。手洗いうがいをしても死ぬときは死ぬ。ワクチンはいつか完成する、くらいの期待はするけれど、それがいつになるかまでは考えない。そんなことを気にする余裕がそもそもない。

自分と関わりのないことを無視していれば、いくらか世界は穏やかだ。

部屋のスタンドライトを点けて積み上げた本をめくり、風呂からあがれば冷えた牛乳を飲み、ベッドで音楽を聞きながら眠る。そんなふうに暮らせるならそれで十分である。

何でもかんでも見聞きして頭を使っていれば当然疲れてしまう。そうじゃない生き方はいくらでもある。世の中のほとんどは他人事だ。疲れることにわざわざ手を出してまで何かを為したい人の意欲はどこから湧いてくるのか。大変不思議である。

今も何かが起こっている。自分ではない誰かにとっての、自分には検討もつかない何かが、自分のいる場所ではないどこかで、起こっている。じゃあ何も起こってないってことでいい。世界は死んだことにしてもいい。そうでもしないと生きいていけないんだよ。