大阪に住んでいた頃、なんばの道頓堀が外国人観光客だらけで、まわりから日本語が聞こえなくても「ここは観光地やもんな」としか思わなかった。彼らは観光バスでやってきて、ドラッグストアで爆買して、時間が来ればどこかのホテルに帰っていく。あのときの彼らはその場限りの人たちで、自分には関係のない「お客さん」だった。
京都に住み始めて全て変わってしまった。どこを見ても、どこに行っても観光客がいる。旅行ガイドに載っているような観光地や繁華街だけじゃない、家の近所の牛丼屋にも、職場の横のコンビニにも、どの交差点に立っても観光客がいる。
彼らが帰っていく「どこかのホテル」は京都のどこにでもあって、空き地にはホテルが建ち、空き家は表札を変えて民泊になっていった。家の裏にも、通りを挟んだ向かいにもホテルや民泊が建ち、一方通行の狭い路地にはいつもスーツケースを転がす音が響いている。
僕らの日常は彼らにとっての非日常で、その温度差に常に曝されているとさすがに具合が悪くなってくる。
最近は自宅で食事をとることが多くなった。職場でもお昼は自分のデスクで食べている。休日に外出しても、わざわざ外で食べるくらいなら家に帰るほうがマシだと思うようになった。それは別に自炊に目覚めたわけじゃなく、ただ落ち着いて食事することができないから自宅やデスクで食べるしかないのだ。
京都市内に安心して暮らせる場所はもうないのかもしれない。京都は純繁華街の道頓堀とは違って職場も住まいも同じ場所ってケースが多いから、繁華街や観光地が賑わえばその分住む場所もその煽りを食らうのは当然のことだ。でも勘弁してくれないかしら。彼らは観光地に来ていて、僕らは観光地で消費されているんだもの。これだけ観光客が一気に増えたらアレルギーで狂いそうだ。
もう京都に住むことにうんざりしてしまったけれど、もちろん観光客に責任は一切ない。でも原因は全部彼らにある。じゃあどうすりゃいいの?
という本を買ってきたので読むことにする。星海社新書は題材も内容も分かりやすくて大好きな出版社である。あと著者の家のドアが素敵。
新居。部屋の灯りを消して息をのむ。墨を流した硯のような玄関。
— ジロウ (@jiro6663) November 10, 2019
これが築50年の艶よ! pic.twitter.com/fbzx57dSHS