TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

映画『この世界の片隅に』削られて魅せる魂、輝く命

この世界の片隅に』をついに観た。京都に住んでいるのに出張先の香川で観た。今観なければ一生観ないかも知れない気がしたからだ。そして観終えた今、もう一度観たいとも、もう二度と観たくないとも思っている。

この予告編を観ると、己の感想が製作者の意図とかけ離れている気がしてくる。

主人公のすずはおっとりとした、健気で、実に可愛らしい女性だ。最初は夫周作との新婚生活の様子や、そのいじらしさがただ楽しそうに見えた。

しかし戦争が激化するにつれて海軍の軍港がある嫁ぎ先の呉にもその影が近づき、ついにその暴力がすずを傷つけてしまう。そしてその瞬間に、すずの魅力が一気に爆発した。打ち上げ花火が夜空に一気に広がるように、押さえつけたバネがその力で遠くにはじけ飛ぶように、今まで見えていなかったすずの魅力が一気に溢れ出てきた。

すずは空襲で右手を失ってしまう。その右手で繋いでいた先にいた、嫁ぎ先の義理の姉徑子の娘晴美も一緒に。すずは嫁ぎ先で家事もできなくなり、徑子からは「お前が娘を殺した」と責め立てられる。そこで心身ともに傷つき、追い詰められていくすずが、何故かとてつもなく魅力的に見えてしまった。

すずは右手を失うことで好きだった絵も書けなくなり、好きな人と手をつなぐこともできなくなり、また大切な人の命を守ることもできなかった。理性を削り取られてむき出しになった人間のたくましさや、覚悟や、魂が、傷ついた心から垣間見えた。だからこそ魅力的に見えた。

また戦争中、海軍で水兵になった幼名馴染みの水原とすずは再開する。妻が幼いころ好きだった男が嫁ぎ先の家に訪ねてくる。そしてすずの夫周作はそれを察して、二人で一夜を過ごすように仕向けた。周作もまた大切なものを失うことで魅力的に見えてくるのかも知れなかったが、これはただただ不愉快だった。この周作の行為は意図的なもので、好きな女性がかつて好きだった男と寝ることを自ら望むのは、誰のためでもないただの自惚れた精神的自傷だ。調子乗るな馬鹿野郎、という気持ちでそのシーンを見ていた。そしてここでもすずは、かつて好きだった水原のことを思い、そして今の自分を省みて苦しんだ。その実直さもまたすずを魅力的にしてみせた。

そのシーンと対比するかのように嫁ぎ先の義理の姉は、自分の人生は自分で決めて生きていたし、またすずに対しても「自分の望むようにすればいい」と諭すこともあった。しかし主人公ではない彼女もまた娘を、その前には夫と自分たちの店を失うことで大きく傷ついた。事実を受け入れようとする気丈さと、今を生き抜こうとする健気さが美しかった。

失った人々はどうしてこうも美しく見えるのか。右手を失ったすず。晴美を失った徑子、街を失った呉。傷ついた心身の機能不全は、その人の能力、機能、美点を纏った価値という血肉を削ぎ落とすとで、むき出しになった骨がギラギラと輝いて見えるようになる。そこを美しいものだと認識してしまうのはなんでだろうか。

白黒の写真や映画は、色を抜いて情報が制限されることでカラーよりも被写体や物語の本質を映し出し易いと思っている。それと同じように、大切なものを失ったり、心身に障害を負うことで、人はその人の本質を発露しやすくなっていると思う。光が強ければ影もそれだけ暗い。その逆もしかりで、影を負うことで光る部分をこの映画ではたくさん見ることができた。

失うことは美しいことだ。失った分だけその人の命は美しくなる。本質がダイヤモンドのように輝く、削り取られたものたちは花火のように眩く散る。ジャコメッティの彫刻のように本質が出てくる。そうやって観た『この世界の片隅に』は、恐ろしいほど美しく輝く映画だった。

世界は片隅でも中心でも美しい 広島にも呉にも、ここ何年かで何度か行った。呉は未だかつての名残で造船所と海上自衛隊の基地がある、呉の向かいの江田島には海上自衛隊幹部候補生学校がある。とても綺麗な街だからぜひとも訪れてみて欲しい。

今年のアニメ映画は「君の名は」が大ヒットしているけど、その次はこれに脚光があたってくれたらいいな。