TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

27歳が無職とニートから脱却するまでの2ヶ月の暮らしについて

昨年12月からの転職活動、1月上旬の休職もようやく終了する目処が立ちました。2月が終わる頃には就職先が確定し、退職願を提出していることでしょう。週休6日の暮らしは予想以上に辛いものです。そして大変寂しいものです。

まず時間を把握する必要がなくなり、常に自分で自分を管理しなければなりません。時間なんて社会との付き合いを効率化するためのツールでしかなく、ひとりで過ごしていく上では必要もなく、何もしなければそれだけ時間はただ無為に流れてゆきます。そしてその事実に気が付いた時、時間を無駄にしてしまったという償いようのない罪悪感のようなものが湧き上がってきます。テレビやラジオもない生活ですので、太陽の傾きだけが時間が流れているという事実と、その時取るべき行動の目安を教えてくれました。そして1日に18時間もベッドの上で過ごすと、横になっているのに腰が痛くなってくるということが唯一得られた学びのようなものでしょうか。

世界が回っているのに置いていかれる自分の惨めさ、みたいなものはよく小説や漫画で描かれているかと思いますが、幸い私の場合はそんなものは全く感じませんでした。無関心であるものごとがどのように変化しようとも、無関心である以上何の感情も生まれませんでした。無色透明無味無臭の動物が、マジックミラーの向こうで生きている様子を見せられているような感覚です。この冬のオリンピックも北陸の大雪も小室哲哉の悲しみも私には何の影響も与えませんでした。

唯一失ったもの、失って何よりも辛かったものは、人と話すことです。無口な人間でも1日1回は誰かと口をきくでしょうが、私はどちらかと言えば口数の多い人間で、そんな人間が誰とも口を聞かずに日々を過ごしていくのがどれほど寂しいことか。これは誰でも想像に難くないでしょう。働いてもいないわけですから飲みにいく機会も減り、飲み屋でこそよく話をしていたものだからとにかく言葉が体の中に溜まり、日記帳に吐き出してみてもやはり文語では口語の表現に追いつかず、今もポスト・アポカリプスの世界に生きているような気分です。ここでキーボードを叩いても話すという行為の代替にはならないと分かっていますが、今はそれでも構わないとキーボードの上の指を動かしています。

高校生の頃は受験勉強から逃れるために読書に没頭していましたが、今はなぜか本を読む気力もありません。考えたところで、そして理由が分かったところでどうしようもないので放っていますが、また本を開いて新しい世界を知りたいという欲求を抱くことができれば良いなと願っています。

日常のどこを切り取ってもその断片は金太郎飴のように均一で、しかしそれを平穏と呼ぶにはあまりに不気味であり、それは心を水に例えることができるでしょう。温度は0度から100度の間で安定しているものの、新鮮であるためには常に流れ続けている必要があり、そして澱めば腐ってしまう、放っておけばいつの間にか蒸発して減り、流せば低い方へ落ちていく。何もしなくても考え続けていけば何かしら学べるし得られる、ただどこかで考えることをやめてしまえば、辛さはなくなるがもはや生きているとは言えなくなる。そして精神は加速度的に絡まってめんどくさくなっていく。

この暮らしから抜け出しても、いずれまた何らかの苦労と愚痴が溜まっていくのでしょうけれど、まだそれに飽きることを知らないだけ、新しい生活が現状より幾分か輝いて見えます。いつにも増して、いや数倍ひどい文章になってしまいました。脳のどの部分が文章を司っているんでしょう。そこにお灸でも吸えたらもう少しまともな文章になったのかしら。