TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

ヘヘッ!上田も螺旋食うのかぁ?<九州カブツーリング0日目・1日目>

カブを親父の定年祝いに供出することになった2021年夏。宗谷岬は行ったけど佐多岬には行っていないのが気になってしょうがない。なので本州の隅を塗りつぶすために宮崎行きのフェリーに乗って九州南半分肩パンツーリングへ出かけることにしました。

まずは17時大阪発の志布志行き「さんふらわあ」に乗船。

フェリーで飲むビールは約束された勝利の味。

この盛り付けはデブか野球部しかやらん。気休め程度に取ったサラダに謝ったほうが良い。

志布志港には翌朝9時ごろ着。気温は35度ぐらいあるはずなのに京都みたいに空気が澱んでなくて素晴らしい。

とはいえ暑いのは事実なのでアームカバーにバラクラバ着用で肌を完全防備しつつ走行中は湧き水を体に浴びせながら走ります。塩タブレットが命をつなぐ。

鹿児島最初の目的地は鹿屋航空基地史料館。が、予約してなかったので見学は諦めて外をうろうろして終了。それだけでもかなりボリュームあったし頭上ではヘリコプターがブンブン飛んでるし見ごたえは十分。

準備というものをしていないからこうなるんだ。

目当ての二式飛行艇。デカい。

多分US-1。同じくデカい。

きみ海上自衛隊じゃねえよな?

財宝の自販機を見つけて怒濤の英語「みすず学苑」に思いをはせる。

そこから鹿児島湾に沿って南下して本土最南端・佐多岬に到達。

"碑"があると撮るよね。

岬からの展望も大満足。屋久島まで見えたぞ。

謎の看板が喧嘩売ってきたので「宗谷岬wwwwもう行ってますけど????wwww」と煽り返して佐多岬は終了。

そのあとは桜島の周りをぐるぐる走ったり長渕剛のモノマネ(「ヘヘッ!上田も螺旋食うのかぁ?」)をしたりしながら桜島フェリー鹿児島市内に突入してドーミーインにチェックイン。

初手で旅の目的を達成しちゃうと次の日からなにをすれば良いか全くわからなくなるから最高だな。

天文館で食べたラーメンがべらぼうに美味しかったです。

<つづき>

あめちゃんを消費していく度にガチ恋になっていた「NEEDY GIRL OVERDOS」

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メンヘラ彼女を配信者に育て上げる「NEEDY GIRL OVERDOS」を購入し、6時間ぶっ通しでプレイしながら僕は唸り声をあげていた。

脚本がにゃるらで主題歌がKOTOKOゼロ年代サブカルネタ満載と聞いたら買わずにはいられなかった。というより面白いとかどうこう考えるよりも前に購入することは確定していたのだ。脊髄反射でクリックしたよ。

こんなん買うに決まってますやん。

メンヘラ彼女こと「超天ちゃん」が配信中に繰り出すネタは、膨大なネットミームを凝縮し1滴1滴丁寧に抽出したドモホルンリンクルのように濃厚で、テキストを読み進めるたびに脳が痺れる。登場するネタも適当に選ばれたものじゃない。そのネタを実際に愛好していたであろうにゃるらの足跡が「超天ちゃん」から垣間見えた。シャープ並の「中の人感」をバキバキに感じる。でも目の前にいるのはインターネットエンジェル「超天ちゃん」であるから、そこのラインは間違えちゃいけない。

しかしインターネットエンジェルと言えどもオフライン上では顔の良いメンヘラ(メンヘラ顔の権化みてえな顔してやがる)こと「あめちゃん」であるので、心療内科に連れて行ったりネットの海を漂いながら真実に目覚めたりしなければいけない。ストレスため過ぎるとリストをカットしちゃうからね。メンヘラってめんどくせぇーでも顔が良いから許されるんだよなー。

ゲーム自体は1周1時間もかからないのですいすいプレイできる。ただしほとんどのエンディングはバッドエンドである。メンヘラにハッピーエンドは似合わないのは当然だけれど、ただ見方によっちゃ幸せかもな?というエンドもある。いろんなエンディングを見たくてどんどん周回を重ね、そのたびに「あめちゃん」か「超天ちゃん」がぶっ壊れていった。ゲームの中の「超天ちゃん」を消費しているような気分でだんだん悲しくなってきたけど、やっぱりリアルの「超天ちゃん」は最高に可愛くて面白いね。

Twitterもバズりまくってるし、この間の配信だって面白かったもん。

 

生配信じゃコメント読んでくれたし、やっぱり超天ちゃんは存在するんだ!って感動したよ。抜け駆けで告白したくなっちゃうのも良く分かるよ。 

 

は?中の人?にゃるら?誰ですそれ?

 

 

ミカン畑でつかまえて

もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、ミカンがどこで生産されているとか、どんなみっともない指の色をしていたとか、僕が生まれる前にミカンが何をしていたかとか、その手のポン・ジュース的なしょうもないあれこれを知りたがるかも知れない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。

冬になるといつも誰かがミカンを配っている気がしないか?その”誰か”ってのは大抵実家や親戚がミカン農家で、毎年段ボールいっぱいに入った(どう考えても1人で食べきれる量じゃない)ミカンを送られてきていて、そいつ自身じゃどうしようもないから、周りにミカンを配りながら在庫を片付けてるんだ。

僕自身、親父の方の実家がミカン農家だし、同僚の実家もミカン農家だし、取引先の実家もミカン農家だから、この時期は常に誰かがミカンを配り歩いているんだ。こうした”ミカンサプライヤー”みたいなのがいるおかげで僕らは柑橘類を店で買わずに済む。これだけは良いところと言ってもいいかもしれない。

ただ僕を含めてこの辺りには3人もサプライヤーがいるおかげで僕らの周りにはミカンを受け入れる余力がほとんどない。でも僕らとしてもミカンをダブつかせるわけにはいかないから、最近はマイナス価格を付けた原油市場のような状態なんだ。誰でもいいからミカンを引き受けてくれ!ってね。

ちなみにミカンを美味しく食べる方法って知ってるかい?ミカンを手のひらにたたきつけるんだ。グローブにボールを投げ込むみたいにね。ここにいくつかミカンがあるからやってみるといい。食べ比べるために叩きつけるミカンとそうじゃないミカンを用意しておこう。あとは誰かに食べさせるためにもう1セットだ。よし、じゃあそれを君にあげるよ。別に礼はいらない。伊達直人でもあしながおじさんでもいいから、とりあえずそれを受け取ってくれ。むしろ君が好むと好まざるとにかかわらず、このミカンたちは君のものなんだ。

だから君がどうしようもない理不尽や悪意に立ち向かわなくちゃいけない時に、さっき教えたミカンの美味しい食べ方を思い出してくれ。そこに含蓄や学びがあるかは分からないけれど、美味しいミカンを食べれば少しは気がまぎれるだろうし、僕もミカンの在庫が減って助かるからね。

ヨーロッパ企画『九十九龍城』やっぱり金丸慎太郎は主役、客演だけど

ヨーロッパ企画の本公演が始まった。コロナでアレな世の中になってからのヨーロッパ企画は走る京福電車の中で配信劇をしたり毎日のようにYoutube配信をしたりと、存外和気あいあいとしていたように見えていた。もちろんイベントが一切できないような時期で苦労していたところもたくさんあるだろうけれど、企画性の名のもとに手広く活動しているのを知っていたからそれほど心配はしていなかった。映画だって世界中で見られてるし。

とはいえ本公演は2年ぶりである。見る側としてはずいぶん緊張したし、それ以上にワクワクもしていた。そして『九龍城とか上田誠が好きそうな題材だな~』とか『どうせ酒井君はエリートかギークなんだろうな~』とか言いながら栗東に向かった。

しかしネタバレはしたくないので内容については書かない。

舞台の上に建てられた九十九龍城は予想通りギチギチに詰まっていたし、葛西先生の照明は相変わらず綺麗だったし、ヨーロッパ企画のメンバーは今日もそれぞれの役割を果たしていた。そして上田誠の物語は今回も僕らを見事に騙してくれた。それで十分だ。

10年近くヨーロッパ企画を観ていればある程度先の展開が読めることもある。でもそれは「きっとこうしてくれるだろうな」という期待を込めた「読み」だ。だって大抵の場合酒井君は片手に端末を持ってドヤるし、中川君はチンピラみたいな歩き方をするし、金丸慎太郎は主役みたいな立ち回りをするんだもの。そんなある意味「お約束」みたいな状況でも上田誠は予想を上回る物語を書いてくるから恐ろしい。相変わらず四条大宮でウンウン唸りながら台本を書き散らしているんだろうな。

公演後は大して感想を語ることもなく「さすが上田誠だな」とだけ話して家路についた。ちょっとだけ日常が帰ってきたようで嬉しかった。ただ感想が全く書けなくなっていたのに驚いた。元々ろくな感想は書いていなかったけれど、さらに指が錆びついているのがショックだった。面白かったのになあ。あんまりログインしてなかったからなあ。残念だなあ。

今回はそういう物語でした。さすがだね。

『サマーフィルムにのって』演劇的っぽい映画って楽しいね

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imaiさんが「サマーフィルムにのって」を褒めていたので見てきた。下調べを一切せずに映画を見るのはいつだってドキドキする。しかも高校青春物だ。下手すると心に傷を負う恐れだってある。でもimaiさんが推してるなら見るしかない。

「サマーフィルムにのって」は時代劇オタの女子高生達が友達や未来人を捕まえて映画を撮る話である。

クライマックスで「あー!なるほどー!」と大きな納得をして映画は終わった。そして1週間後にもう1度見て、再度「なるほどー!」と納得しながら家路についた。

何を納得したのか。それは「すごく演劇的な映画だな」と思いながら見ていたら、脚本がバリバリの演劇畑の人だったからだ。なんならキャストにもその劇団のメンバーがいた。演劇畑の役者さんはハキハキ喋るから大変分かりやすい。

では演劇的とは何か。それは「物語の分かりやすさ」ではないか。

例えば映画は観客の見方を誘導することができる。殺陣のシーンなら侍の目や柄を握る手をクローズアップして写したり、逆に全景を写して囲まれている様子を写したりできるし、レンズを変えれば視野を広げたり狭めたりもできる。映像ならこんな風に見せ方の演出ができる。

ところが演劇の場合観客は舞台上のどこを見るのも自由だから、物語を見せるためには明確なセリフや役者の動きが必要になる。睨みを利かせるなら眼だけでなく体全体を動かさなければならないし、その場に立ち尽くすのではなく身振り手振りを交えて喋らなければ観客の注目を集めることができない。

演劇が不便であるようにも見えるけれど、今回のように演劇的な映画になると「物語の分かりやすさ」が際立つし、単純に見ていて楽しい。ぼんやり見ようがしっかり見ようが物語に引き込まれてしまう。そしてラストシーンで見事に切り捨てられて、「うおー!」と唸りながらブログを書くことになる。見ているときは「このカットとかセリフいるんか?」と思う所もあったのに、「演劇として見るなら必要だった...」と最後にまた納得してしまった。逆に純粋な映画として見るときにこの脚本や演出に違和感を感じたりする人もいるんかしら。

1000字弱感想文を書いたけれど、別に解釈しながら見なくてもめちゃくちゃ楽しい映画なのでさっさと見るのだ。わしはブルーハワイ役の祷キララが超好き。あと役名がみんな無茶苦茶なのも最高。

あ!!!!!祷キララって2年前にヨーロッパ企画の本公演で見てる!!!!!!

 

脚本家さんの所属劇団。関西に来たら見に行くぞ。

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「コンテナのスタッキングは5段まで」この説明書に書いてあることをあなたが守るならの話だけれど。

引っ越して一カ月経ったというのにまだ本棚がない。

荷造り用の段ボールに本を入れたままにするのも癪なので10個ほどのバックルコンテナに詰め込んで壁際に積み上げてみたが、なんだか部屋が倉庫か工場のようになってしまった。

しかも本以外にも工具やバイク用品も箱に詰め込んでしまったので、どれに何を入れてたのかさっぱり分からなくなってしまった。しょうがないのでテプラや養生テープで「ドリル」だの「塗料」だの「同人誌」だの書いたラベルを作って貼ってみたが、そのせいでさらに部屋の倉庫感が増し、「5S」活動を頑張っている現場みたいになった。

そもそもこれは本棚を買えば解決する話なのだが、いい感じの本棚というのはそう簡単に見つかるものではない。

かろうじて組み立て式の棚1つを仮の本棚として稼働させているが、その棚もキッチンに置いているので「映像研には手を出すな!」の手前にイナバのタイカレー缶が積み上げられているし、「三体」の横には箱入りの養命酒が立てられている。

棚の最上段には文庫本が並んでいるので「キッチンでパスタを茹でながらフィッツジェラルドを読む」という村上春樹的ムーブはできるかもしれないけれど、あいにく――もしくは幸いと言うべきかもしれないが――僕の家にはパスタの茹で上がりを妨げるような電話は置かれてないし、シャワーを浴びながらわざわざ大声で話しかけてくるような人もいないから、今のままでは説得力に欠けた演技をして審査員を――彼らは一体何を審査するというのだ?―—落胆させてしまうことだろう。

蔵書はともかく増えた工具類や塗料の類は箱ごとベランダに保管すれば良いので多少は部屋も片付いた。

9月以降は気圧が下がり脳は圧迫され生活もハードモードになっていくので今のうちに身の回りは片づけておくことにする。そして週に一度はサウナをかまして体をリセットするのだ。

村上春樹的にはサウナってどうなんですかね。湯船に入る描写すらあんまりなかったような気がする。

昭和96年夏の敗戦

「うっせえわ」と言えるほどの反骨精神がないので「知らんがな」と呟きながら暮らしている。

誰が呼んだか知らないが我々は無欲な「さとり世代」である。誰かがまとめた誰かの話を聞いて何かを知った気分になり、誰かが撮った何処かの写真を見てそこに行った気分になり、読む文章の最後の言葉はいつも「いかがでしたか?」になっている。

不要不急だステイホームだと言われても、普段通り過ごすだけで人と関わらない暮らしぶりになっていて、ワクチンの接種券が届けば淡々と予約をして、肩の出る服装で会場へ向かっている。副反応に備えてポカリとロキソニンを飲んで眠り、翌朝上がらない腕を見て「こんなもんか」と納得する。

誰かの怒りに共感することもないし、誰かの悲しみに寄り添うこともない。自分と関係のないことはこの世の中に存在しないのと同じであり、取捨選択するほど情報が多いなら最初から何も見聞きしないことを選んでいる。

エアコンの効いた部屋から炎天下の交差点を見下ろすと、日傘をさして小さな扇風機の持った人が見える。そうしていると世間と自分との間にはどうしようもなく深い溝が横たわっているのだとしみじみ実感できる。

どういうわけかエネルギーはすっかり失われてしまった。凪いだ水面に浮かんだ船はどうなってしまうのか。しかし考えたところで「知らんがな」としか思わない。

多分これ夏バテだな。焼肉でも食って寝よう。