TANNYMOTORS

一度人を食らった熊は、その味が忘れられず再び人里に降りてくるという。つまりバイクの日記です。

映画『十二人の怒れる男』大人は正しい判断ができる人か、間違いを認められる人か

GUILTYT OR NOT GUILTY

12人の陪審員が父親の殺人容疑で起訴されたその息子について話し合う。最初はみんな「どうせ有罪だろ」という雰囲気で多数決を取ろうとする。しかし有罪に挙げたのは11人。無罪に投票した1人の男は「話し合いたい」と言い、一つ一つ事件の証拠や証言を確かめていく。

モノクロの密室理詰め映画

「12人の怒れる男」は1957年公開のアメリカ映画だ。もちろんモノクロだし、音はモノラルで音質も悪い。でも観終えた時に「ああ、これは物語だったんだ」と思ってしまう良い映画だった。12人の陪審員が会議室でひたすら話し合うだけの構図なのに、ストーリーが面白いとそんなことはどうでも良くなるみたいだ。

実のところ被告人が有罪か無罪かは誰にもわからない。有罪の可能性も、無罪の可能性もある。この結末がハッピーエンドだったのかさえ正直わからないけど、全員が真剣に考えて、議論して、結論を導いていく過程に、片時も目を離すことはできない。

「どうせスラムの子供だから」「不良だから」そういう偏見で裁判を見ていた人たちが、少しずつ事実を受け入れて、判断して、考えを改めていく様子が、この映画の中では描かれている。大人になると自分の非を認めたり、考えを改めたりすることができなくなる。「自分は間違っていた」ということを認められる大人は、ほんの一握りしかいない。その現実が、映画という物語のフィルタ−を通して伝わってきた。

人は自省することができるか

大学で哲学の授業を取っていた時、「世界が5分前に想像されたと言えるか」という有名なテーマについて、学生同士一対一で議論したことがある。僕は「否定する側」で相手の女の子は「肯定する側」だった。最初は「負けるものか、屁理屈は得意だ」と思って議論を始めたが、互いに言葉を交わすうちに、僕は反論する言葉が見つからなくなってしまった。将棋で言うところの「詰み」の状態だ。その時は素直に「確かにあなたの言う通りです」と自分の負けを認めた。

それを見ていた講師の先生は「これを社会人同士でやると、負けを認めたくないからって喧嘩になることもあるよ」と話していた。そのときは「そんな大人気ない人がいるのか、大人のくせに」と思ったけど、今になってみれば確かにそんな人ばかりかも知れない。

プライドが素直さを覆い隠して、いつの間にか自分の頭では考えずに本心ではないことを大声で叫んだり、間違っていることを認識できなくなったり、そういう人間ってたくさんいるよね。今回はそういう主旨の映画だったと思う。でもそこに真っ向から立ち向かう人が出てくるのが、さすがアメリカ映画らしさというか、見習うべきところというか。

観るときは気合を入れて観よう

三谷幸喜が日本版にした作品もあるけど色合いがぜんぜん違うので面白い